昭和30年4月1日、今市駅のホームに降りたとき目の前に男体山が雪に輝いていた。
駅近くに鹿高の渋佐校長が住んでいた。そして今高の茶華道部の顧問は渋佐夫人で、秋の学校祭には私はそのお付き人にさせられた。
事務のホソカワさんは鹿沼高女の出身だった。通学途上で経験した脱線転覆の話は、今市地震のときと思っていた。ところが終戦の翌年早々の事件で、鹿女高生死者2名を出したと最近知って驚いた。
本校の前身の鹿沼高女と氏家高女、石橋中学、今市中学の4校は創立が同年の昭和元年である。私は今高から石橋高に転勤し、(途中宇高で寄り道して)鹿高で退職した。3校とも玄関や校舎の造りはそっくりだった。鹿高も今高も駅に近く正門は駅を向いていた。匂いまで似ていた。ただ並列して立つ今高の避雷針の数はスゴかった。夏には避雷針が幾筋もの稲光と大音響を連れてきた。
今高初任の10年前が昭和20年で大田原中1年。2年の国語教師は、奇しくも後に鹿高校長としてお世話を受ける小木曽滝男先生だった。その授業中に前の席のヒラヤマとの悪戯が見つかり廊下に立たされた。(NHKのキャスターで華やかに活躍したヒラヤマ健太郎も同組だったが級長で最後尾の席にいた。陸軍幼年学校帰り。小柄で聡明な彼は級友たちの敬愛の的だった)
今高の普通科は男女別学で四クラス。旧制中学の名残もあり優秀な生徒が結構いた。当時、渋佐校長の強大な指導のもと鹿高は華やかな進学校だった。私は今高が全世界でお隣の鹿高はカヤの外だった。
ところが共稼ぎのためこの街に居を構えて、表記の言葉を聞いた。学力で選抜したクラスだという。無邪気な
言葉がおかしかった。
この「10組」が諸先生間で多様な意見や強い批判で話し合われているのを、転勤してきて知った。経年化して短所が浮き出てきた。解体することになる。その翌年、普通科の新入生は男子が多かった。9組と10組が男子だけのクラスになった。ごく少数の男子から始まった新制高校が、1972年のこの年は男女比が大逆転した。そして10組の担任が私だった。
「うちの子がなんで10組?」そう思った保護者が当然いた。この編成は腰砕けで2年で3組、3年で再び10組が選抜クラスとなった。私は2年では女子が10人ほどの3組を、3年で男子だけの9組を担任した。この正月2日、わが家の炬燵を囲んで8人ほど元9組だった58、9歳の紳士たちが正午から夜の10時ごろまで歓談した。今は彼らに啓蒙されている。
栃木県で第1号の米人の英語教師を迎えたことがあった。男女共学で生徒の理解力もある鹿沼高が適しているとその受け入れ校に指名されて私が出迎えに行かされた。(偶然にもお隣の群馬は似たような館林高で私の親友がいた)学校共済くろかみ荘で大学出たての米国の青年を迎えた。確か県の指導課の吉澤先生、教育委員会から高野悦子、「二十歳の原点」の御父君で教育委員の高野三郎氏が出迎えた。お二人とも穏やかで暖かい雰囲気を醸し出しておられた。遠来の客を迎えるに最適の方々だった。
廣木 彰三 先生〔昭和45年〜平成5年〕
鹿高同窓会報 かんらん 第22号 90周年記念号〔平成28年2月29日発行〕より転載
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