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鹿沼高校卒業50周年同窓会の開催のお知らせ

鹿沼高校卒業50周年同窓会の開催のお知らせ

 向春の候、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
 さて、この3月で鹿沼高校を卒業して50年になります。予定通り、下記により「鹿沼高校卒業50周年同窓会」を開催いたしますので、お誘いあわせの上、ご出席くださいますようにお願い申し上げます。

1 日 時  令和7年8月9日(土)午後12時20分開会
      (午前11時40分受付開始)

2 場 所  そば割烹日晃(鹿沼市西茂呂2-22-25)(0289)65-2525

3 参加費  10,000円(下記に振込んでください。)
      ※なお、前回開催費用7,000円を納入いただいている方は、
      差額3,000円を下記に振込むか当日納入してください。

4 振込先  ゆうちょ銀行 記号:10700 番号:24314441
      口座名:カヌマコウコウヨンジュウキュウドウキカイ
      (郵便局:振込料0円月1回の場合、他の金融機関:振込料実費)

5 出 欠  同封の返信はがきで、令和7年2月28日までにご一報頂けますようお願いいたします。

(これまでの経過)令和2年3月14日に開催を予定しました「卒業45周年同窓会」はコロナ禍により、開催直前に延期をしました。その後もなかなか収束に至らず、平成4年11月の役員会で、「2年半後の卒業50周年(令和7年3月)まで送り、『卒業50周年記念同窓会』として開催する」ことを決定いたしました。この件につきましては、その都度お知らせしたとおりです。この間、2回の開催案内と2度の延期通知を送付したこと、今回の同窓会場費用の高騰が予定されるため、やむを得ず、参加費を改めたところです。ご理解をいただきますようお願い申し上げます。
なお、全体に呼び掛けての(学年)同窓会は今回限りとなる予定です。

鹿沼高校卒業50周年同窓会の開催のお知らせ

鹿沼高等学校創立100周年記念事業募金のお願い

 会員の皆様におかれましては、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
平素より鹿沼高等学校の発展のためにご支援、ご協力を賜り、深く感謝申し上げます。
さて、鹿沼高等学校は令和7年に創立100周年を迎えることになりました。顧みますと、大正14年、栃木県立鹿沼高等女学校として設立され、昭和23年の学制改革により鹿沼高等学校と改称、男女共学校となり、翌年に鹿沼市立女子高等学校と統合、昭和26年に栃木県立鹿沼高等学校と改称して現在に至っております。今日まで34,000名を超える人材を輩出し、卒業生の活躍は多方面にわたり、栃木県を代表する進学校として躍進を続けています。
 この度、100周年の節目を迎えるにあたり、同窓会、PTA、学校が一体となって実行委員会を立ち上げ、後進の育成と鹿沼高等学校のさらなる発展を願い、下記の記念事業を計画いたしました。
 つきましては、何かと出費多端の折、誠に恐縮ではございますが、本事業の趣旨にご賛同をいただき、格別のご支援、ご協力を賜りますよう衷心よりお願い申し上げます。

募金趣意書

百周年中間報告

鹿沼高校卒業45周年同窓会・再延期について

向寒の候、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
さて、令和2年3月14日に開催を予定しました「卒業45周年同窓会」はコロナ禍により延期をしたところです。以来、2年半が過ぎ、状況は好転しているものの、未だ収束には至っていません。
この状況を踏まえ役員会を開き、検討した結果、「この際、あと2年半と迫っている卒業50周年(令和7年3月)まで送り、『卒業50周年記念同窓会』として開催する」ことに決定いたしました。
つきましては、この趣旨をご理解の上、ご協力をお願い申し上げます。

令和4年11月11日
鹿沼高校49同期会役員一同

再延期通知書PDFはこちら

鹿沼高校卒業45周年同窓会・延期について

鹿沼高校卒業45周年同窓会・延期について

令和2年3月5日
鹿沼高校49同期会役員一同

 早春の候、ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
 このたびの同窓会への出席のご返信をいただきまして、ありがとうございました。約80名の出席により開催するべく準備を進め、3月14日(土)に開催というところでありました。
 しかし、現下のコロナウィルスの感染拡大を考慮すると、開催は難しく、延期することにいたしました。
 現在、今後の終息を見通すことはできませんが、次の開催に向けては以下のとおりと考えていますので、ご理解ご協力をよろしくお願い申し上げます。

1 改めての開催は、コロナウィルスの感染拡大が終息とされた後、再度準備し、できるだけ早く開催したいと考えています。

2 納入いただいている会費については、本会でお預かりし、改めての開催の際に充当させていただければ幸いです。

3 本会のホームページを充実させてまいりますので、折に触れ、ご確認いただきたいと思います。

4 その他、何かありましたら、ホームページまたは下記幹事までご連絡をお願い申し上げます。

役員等

幹事代表 阿部 真一(4組) 中村 哲也(10組)
 倉松 俊弘(9組) 宇賀神和彦(7組)
1組幹事 山中 君子  六角 安子
2組幹事 高橋美代子  太田 友子
3組幹事 板橋 和子  高橋 和子  篠原 淑乃
4組幹事 嶌野  祐  大橋 通代
5組幹事 中山 裕二  宇賀神秀子
6組幹事 青木 功夫  坪子 聖世
7組幹事 森沢  孝  佐藤 弘子
8組幹事 新島 康夫  神長  明
9組幹事 福田 和也 *倉松 俊弘
10組幹事*中村 哲也  関口  一
事務局 佐伯 全弘(10組) 関口 直美(5組)
 大門伊津子(6組) 小野口利之(5組)
(*)は兼務

うちのアンチャンは10組だ

昭和30年4月1日、今市駅のホームに降りたとき目の前に男体山が雪に輝いていた。

駅近くに鹿高の渋佐校長が住んでいた。そして今高の茶華道部の顧問は渋佐夫人で、秋の学校祭には私はそのお付き人にさせられた。

事務のホソカワさんは鹿沼高女の出身だった。通学途上で経験した脱線転覆の話は、今市地震のときと思っていた。ところが終戦の翌年早々の事件で、鹿女高生死者2名を出したと最近知って驚いた。

本校の前身の鹿沼高女と氏家高女、石橋中学、今市中学の4校は創立が同年の昭和元年である。私は今高から石橋高に転勤し、(途中宇高で寄り道して)鹿高で退職した。3校とも玄関や校舎の造りはそっくりだった。鹿高も今高も駅に近く正門は駅を向いていた。匂いまで似ていた。ただ並列して立つ今高の避雷針の数はスゴかった。夏には避雷針が幾筋もの稲光と大音響を連れてきた。

今高初任の10年前が昭和20年で大田原中1年。2年の国語教師は、奇しくも後に鹿高校長としてお世話を受ける小木曽滝男先生だった。その授業中に前の席のヒラヤマとの悪戯が見つかり廊下に立たされた。(NHKのキャスターで華やかに活躍したヒラヤマ健太郎も同組だったが級長で最後尾の席にいた。陸軍幼年学校帰り。小柄で聡明な彼は級友たちの敬愛の的だった)

今高の普通科は男女別学で四クラス。旧制中学の名残もあり優秀な生徒が結構いた。当時、渋佐校長の強大な指導のもと鹿高は華やかな進学校だった。私は今高が全世界でお隣の鹿高はカヤの外だった。

ところが共稼ぎのためこの街に居を構えて、表記の言葉を聞いた。学力で選抜したクラスだという。無邪気な
言葉がおかしかった。

この「10組」が諸先生間で多様な意見や強い批判で話し合われているのを、転勤してきて知った。経年化して短所が浮き出てきた。解体することになる。その翌年、普通科の新入生は男子が多かった。9組と10組が男子だけのクラスになった。ごく少数の男子から始まった新制高校が、1972年のこの年は男女比が大逆転した。そして10組の担任が私だった。

「うちの子がなんで10組?」そう思った保護者が当然いた。この編成は腰砕けで2年で3組、3年で再び10組が選抜クラスとなった。私は2年では女子が10人ほどの3組を、3年で男子だけの9組を担任した。この正月2日、わが家の炬燵を囲んで8人ほど元9組だった58、9歳の紳士たちが正午から夜の10時ごろまで歓談した。今は彼らに啓蒙されている。

栃木県で第1号の米人の英語教師を迎えたことがあった。男女共学で生徒の理解力もある鹿沼高が適しているとその受け入れ校に指名されて私が出迎えに行かされた。(偶然にもお隣の群馬は似たような館林高で私の親友がいた)学校共済くろかみ荘で大学出たての米国の青年を迎えた。確か県の指導課の吉澤先生、教育委員会から高野悦子、「二十歳の原点」の御父君で教育委員の高野三郎氏が出迎えた。お二人とも穏やかで暖かい雰囲気を醸し出しておられた。遠来の客を迎えるに最適の方々だった。

廣木 彰三 先生〔昭和45年〜平成5年〕

 鹿高同窓会報 かんらん 第22号 90周年記念号〔平成28年2月29日発行〕より転載

こちらから、記事のPDFをダウンロードすることができます。

あれから40年…4度目の再会

昭和50年3月鹿高を卒業して間もなく40年となる平成27年2月7日(土)に「卒業40周年記念同窓会」を開催しました。

参加者は、恩師9名を含む約100名でした。約100名というのは、会の途中からの参加、二次会から参加等があり、きっちりと人数の把握ができなかったためです。一般的な定年、60歳まで残り2年となり、各人最後の追い込みに忙しいところであったと思います。また、先生方は1〜3年時の担任・副担任、部活の顧問、私達の卒業時に鹿高に在籍していた先生方など約80名にご案内させていただきました。

これまで、卒業後10年(昭和60年8月)、卒業後20年(平成7年8月)、卒業後30年(平成17年10月)、と10年毎の節目に開催をし、その都度、名簿の調整をしてきましたが、連絡のつかない人が少しずつ増えてきています。

今回は名刺大の「開催案内カード」を作成し、幹事が常備し、同級生に会った時などに渡して、周知に努めました。

また、近くに住んでいる人、同じ小中学校だった人、現在同じ職場の人などへ連絡をする「タテ・ヨコ・ナナメ」に網を張る作戦も展開しました。450名の40%(40年なので)180名の参加を目指しましたが、返信のあった人(250名)の40%100名の参加にとどまりました。単独のクラス会、部活の集まり、職域の集まり、趣味の集まりなどもあるようなので、それらを活用して、5年後には、200名の参加を目指したいと思っています。(無理か?)「他の学年の人にも会いたい。」という人がいます。それもあるなぁと思います(甦る青春⁉)。各450人で三学年、1,350人と先生方約100人、1,450人が普通に「全校集会」を開いていた奇跡のような日々があったんだと、つくづく思います。

このうち何割かでもが集う「昭和○○年度鹿沼高校在校生」同窓会が開けないかと思ったりします。

私達が2年生(昭和48年度)の時とすれば、1学年上の先輩と1学年下の皆さんの年代の協力が必要になりますが、誰も挑んだことのない試みでありおもしろいのかもしれません。

先生方を含めて400名位の大きな会になると思うと、ちょっとその気になっている私達です。

昭和50年卒業 小野口 利之〔昭和49年度卒業生同期会〕

 鹿高同窓会報 かんらん 第22号 90周年記念号〔平成28年2月29日発行〕より転載

こちらから、記事のPDFをダウンロードすることができます。